詳しいプロフィール その3

ついに開局!

1982年(大学2年)

 4月24日の免許でついにアマチュア無線局JO1QNOの免許状が自宅に届いた。2月の初旬に申請して4月の終わりにやっと開局なのだから、のんきな話だ。

 初めての交信はどんなOMさんとやろうか、などと楽しみにしていたが、結局とんでもないハムと交信するハメになってしまった。
 その話は「よもやま話」にある「MY 1st QSO」をごらんいただきたい。
 とんでもないハムではあるが人間的には面白く、かわいげのある人だった。「だった」などと過去形で言っているのは、このプロフィールを書き始めた頃にはすでに閉局していたからだ。
 ところが、これを加筆している2020年の2年前である2018年に旧友から彼のカムバックのうわさを聞き、そしてついに2019年にコンテストでコールされ、感動の再会を果たしたのである。
 面白おかしく「とんでもないおやじ」などと言っているが、CALLされたときはうれしかった。

 ところで、はじめて買ったリグは講習会終了直後に購入したRJX-610だが、このリグは数年後に誰かに貸したまま戻ってこなかった。誰に貸したのかさえ覚えていないのだが・・・・・・返せ、馬鹿ヤロー!

 この頃、福島県郡山市でアパート暮らしをしていたのだが、1エリアではホイップアンテナでガンガン信号が聞こえてくる50MHzなのに、郡山では何も聞こえなかった。
 近所の方の話によると郡山ではHFと144MHz以外はいないという。そこで、開局後数ヵ月後に全貯金をはたいてTS-830V(HF 10W)とC88(2m 1W)を購入し7,21MHz/SSBと144MHz/FM、50MHz/SSBにQRVしていた。



 TS-830V購入の際は在庫がなく、しばらく待たされた。電話級がアマチュア無線家の90%以上を占めるから、どうしても10W機が売り切れるのだろうと思っていたが、実際にはVタイプを買う人はほとんどなく、100WのSタイプばかり売れるために10W機は店が在庫していないのだった。
 開局して1年くらいの間は、ハムのほとんどは免許の出力を守っているものだと思い込んでいた。ちょうどサイクル21の後半にさしかかった頃でコンディションが良かったため、10WでもDXを行うことができたから10Wというパワーに私は不満がなかった。
 ちなみに、144MHzは1Wだったが、郡山市は盆地でその中にたくさんのハムがひしめいているので十分だった。

 ところでTS-830VとC88を購入したのは郡山市のヤマト無線なのだが、うれしいことにこの無線ショップは2022年5月現在、いまだに存在している。
 その頃と場所はぜんぜん違うようだがなんだかうれしい。
 ここの店主の栗田さん(JA7SQT)の計らいで翌年には郡山うねめ祭りで本町の神輿を担がせていただいたことは私の人生の中でもとても大きな楽しかった思い出として残っていて、学生相手にはずいぶんと値引きをしてくれたので感謝感謝!
 あの頃はいつも綺麗な奥様が一緒に店番をしておられたけれども、お元気だろうか?

 さて、50MHzの話に戻るが、郡山では1週間ワッチしても雑音しか聞えなかったので無線機が壊れたのだと思い込んだがそうではなかった。
 ハムショップにも50MHzのリグはおいていないし、「市内で50MHzをやっている人は2,3人の変態しかいない」と近所のハムに言われた。
 それでも1週間ほどワッチして変態の1人、JR7CLB(also JA6BFD)大越さんと交信することができた。
 彼は大学の先輩で、それを機会にあれこれとお世話になった。
 大越さんとは大学を卒業してからまったく交流がなかったのだが、それから27年後の2008年9月23日に私が鹿児島県枕崎市で行った7MHz CWでの移動運用時にコールしてくれた。
 学生時代の最後の交信が1984年7月8日でその後なんの連絡も取っていなかったのに、24年も聞いていなかったコールサインに気が付き、鳥肌が立ったのは不思議なものだ。
 交信後、e-mailで「なんでお前が九州にいるんだ! 今から熊本に来い!」と言われたが翌日帰る予定だったのでそうもいかない。
 すると「次回九州に来るときには必ず連絡しろ」と言われ、約束通りその数ヶ月後に熊本市の料理屋で一献傾けることができた。アマチュア無線をやっていたからこそもつことができた、楽しいひとときだった。TNX JR7CLB.

再会したそのときのショット。右が私

1983年(大学3年 開局2年目)

 14MHzに出たくて電信級は飛ばして第2級アマチュア無線技士(通称2アマ)を取得した。
 試験会場は仙台。CWの試験中に選挙カーが候補者の名前を連呼しながら通ったため、試験を中断してやり直すハプニングがあった。
 隣に座っていたお兄さんは「畜生! 最初の時はとれていたのに、緊張が解けて2回目は駄目だった。畜生畜生! これ、おかしいよな、君!?」と同意を求めてきたが、CWのワッチが趣味だった私はバッチリ取れていたので鼻くそをほじりながら余裕をかましていた。
 このころ、1,2アマ合わせてもアマチュア無線家全体の5%くらいしかいなかったが、それは10Wを超えるには電波管理局(今の総通)の検査が必要だったため、ほとんどの局は10W免許であったので、検査まで受けようという気がなければ14MHzに出たい人以外は上級資格をとるうまみがなかったからだ。
 電話級をやっと3回目でとった私が特段優秀だったわけもない。

 この年、郡山で特にお世話になっていたJA7FKI桜内OMの紹介で、それまで住んでいた2階建てアパートから4階建て鉄筋コンクリートのアパートに引っ越した。屋上を使い放題という約束だった。
 その条件を決める際、大家さんが「そのアンテナはテレビのアンテナよりも大きいですか?」と質問したので私は「大きいです」と答えた。屋上にルーフタワーを建てて14MHzの3エレ八木をあげて回したとき、大家さんは口を開けて固まっていた。「大きい」と正直に答えたのにねぇ〜。

 先に書いた通りこの頃はJARLの保証認定が10WまでだったのでそのままTS-830Vの10W出力で楽しんでいたが、さすがに14MHzは飛ぶ。
 CQをだすとヨーロッパもアメリカも呼んでくる。UCLAの学生からスケジュールQSOを申し込まれて、毎週決まった時間に交信していたりもした。

 このアパートはユニークな住人が多かった。私の隣は仮面ライダーにでてくる死神博士に似た学生で私が付けたニックネームは「博士」、その隣は毎朝大音量のお経で起きる変なサラリーマンの「念仏」君。このお経目覚ましが大音量で炸裂すると博士が廊下に飛び出し念仏君の部屋のドアを蹴飛ばして「てめーーっふざけんなーー、ぶっころすぞーー!」と叫んで起こす事態が頻発していた。
 私の下の部屋はお風呂の照明がピンク色の男性同性愛者二人組で、その隣は暴力団員の「やっちゃん」。そしてその下は私が良く食事をした喫茶店チェリオ(あさりチャーハンが激ウマ)のママでそのまんま「ママ」。そして、その隣が美人人妻の「京子さん」。

 ある日、駐車場でやっちゃんが話しかけてきた。
「俺の隣の野郎の音楽がうるせーから怒鳴り込んでやろうと思って木刀を持ってベランダから入りかけたら、部屋の中で男二人が抱き合ってんだよ。俺、気持ち悪くなって戻ってきちゃったよ。あれ、なんなんだ?」
「モーホーみたいですよ」
 私がそう答えると、
「そ、そうなのか。ち、近づくのやめておこう。で、おまえ、ホモ以外のことで困ったことがあったら俺に言え!」
 とのお申し出。
「そりゃどうも」
 と言ってはおいたが、 あまり頼もしくなさそうなやっちゃんだった。

 このアパートは白雲ビルというたいそうな名前がついていたけれど、かなりボロ。それでも4階建てだし屋上を自由に使えたのでHFもバンバンやっていた。難点を一つ言えば、東北新幹線がすぐ横を走っているので、Sメーターが張り付くような強い信号であっても新幹線が通ると何も受信できなかった。
 数年前に郡山に立ち寄った際に探してみたが、このアパートはもうなかった。あったら怖いけどw

 さて、この頃からCW中心にDXを開始。パドルはベンチャーのBY-1を親友だったTOSHIさんの手配で個人輸入で購入して使っていた。このパドル(昔はマニュピレーターという言葉を使っていたと思う)が生まれて始めて購入したパドルなのだが、未だにこのパドルが私のメインパドルなのだ。つまり、これを加筆している2020年現在ですでに37年も使っていることになる。
 いまだにこれを超えるタッチのキーに出会うことはできていない。

わたしのBY-1.2013年2月撮影

 CWでDXをはじめてみると、10WのCQにガンガン呼出が来る。「JO1」というプリフィックスでCWを叩いている局が少なかったので、WPXを集めているDXerからは毎晩パイルをくらった。中には「どこのカントリーだ?」と聞いてくるDXerもいて、「JAPAN」と打ち返していたが、さぞかしガッカリしたことだろう。

 親友となったTOSHIさんと知り合ったのもCWのおかげだ。
 DXとしか交信していなかったTOSHIさんがある日、僕がCQに強烈なシグナルでコールしてくれ、「SSBへいこう」と誘ってくれてラグチュウをはじめた。
 彼も年上ではあるが大学生なのに、アマチュア無線のキャリアはすでに10年もある、CWの達人だった。
 その後は毎日のように彼と会ったり飲みに行ったり、ラグチュウしたりと交流が続き、まさに親友だった。

1984年(大学4年 開局3年目)

 JARLの保証認定が100Wまで拡大し、検査なしでパワーアップできることになった。さっそく、改造キットでTS−830を50WにQROし、50W免許を取得した。この年に私のDXの先生でもあるTOSHIさんの手配で中古の外部VFO、VFO-230を手に入れたのでスプリットでは有利だった。この頃、スプリットが出来る局は少なかったからだ。
 このとき購入した外部VFOもいまだに所有している。

 また、この年かあるいは前年かもしれないが、中古でTS-600を手に入れた。CQ誌の「売ります買います」で買った。確か5万円だったと思う。



1985年(社会人1年)

 大学を卒業し、就職のため郡山のアパートを引き払って千葉県我孫子市に戻ることになった。
 郡山は人情が厚く今でも大好きな土地だ。ガスの集金に来たおじいさんが私の質素な夕食を見て、おばあさんが揚げた鶏のから揚げを持ってきてくれたなんていうこともあった。

 近所のOM達にも可愛がってもらった。
 夜中までレポートを書いていると突然アパートの窓が開いて、「夜食だ!」とおにぎりを投げ込んでくれたのはJA7FKI桜内さんだ。ローカルみんなで一緒に蔵王温泉へ行ったり、磐梯高原へ行ったり遊んでもらった。とにかくいろいろ世話を焼いてくれるひとで、何かと面倒を見てもらった。最後に会話したのが2017年か8年で、突然スマホに電話がかかってきて30年以上ぶりに話をした。ところが去年、JA7FKIの免許が失効していることに気づき郡山の知り合いに尋ねてはじめてサイレントキーだと知った。まだ60代なのに、残念だ。

 毎晩のようにバカ話に付き合ってくれた変態高校生のJE7NHB遠藤君は今でもたまに交信するし、メールが来たりもする。彼とのラグチュウはいつでも爆笑だった。
 DXのいろはを教えてくれ、飲みに行ったり遊びに行ったりと毎日にように会っていた親友のTOSHIさん。TOSHIさんとは40年経った今でもたまに一献傾けている。
 TOSHIさんのコールサインを書かないのは彼がシャイで、コールを出して書かれるのが好きではないだろうと学生時代からの想像でそう配慮しているためである。

 体調が悪いというと無料で往診してくれたJE7XIQ根本内科医院の根本先生。根本さんはながらくQRTだったようだが最近免許が復活しているのを発見している。何時かお空で会えたらうれしい。
 歯の時間外治療を無料でやってくれたJN1UKQ小宅先生。その後7エリアのコールサインに変えたらしいが覚えていない。小宅さんにもあれこれお世話になった。
 CW DXの話が尽きなかった高校生のJE7LHT村田君。彼はいまでは立派な父親らしい。先日仕事で郡山へ行った際に再開したかったが、残念ながらスケジュールが合わなかった。かれはおしゃべりしながらでも流れているCWを聞けてしまう凄腕で、パイルの中で返ってきた信号を当の本人が気づかないのに彼は「来た!」と叫ぶ。すごい耳の持ち主だ。
 ラウンドテーブルQSOをしていると話が長すぎて何人も寝かせた同級生のJO1CJJ潮田君。彼も千葉県人なので最近でも我が家の近くをモービル走行中にたまにコールしてくれるので、ちょっとしたラグチュウを楽しむことがある。
 ここには書ききれないほどいろいろな人がいたが、とにかく多くの人と出会い、お世話になった。そしてそんな彼らとの別れを惜しみつつ、1985年3月に郡山を後にした。

 郡山の皆さん、本当にお世話になりました。

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